長野県中央部、八ヶ岳連峰の北に位置するのが、成層火山である蓼科山。白樺湖南方から蓼科山南麓一帯を蓼科高原とよび、白樺湖北側を東蓼科高原と呼びます。
蓼科高原は標高900m 〜 1,800mと標高が高いため湿度が低く、夏季は冷涼であり、避暑地に、高原の澄んだ空気や豊かな自然を求めて、保養地として昔から多くの文人・著名人からも愛されています。
昭和30年代から急速に観光開発が進み、ビーナスラインなどが通じ、蓼科高原のシンボルでもある蓼科湖をはじめ、白樺湖・女神湖と数々のリゾートエリアをなし、室町時代から現存するといわれる蓼科温泉郷、ゴルフ場、スキー場などの観光資源に富んでいます。
蓼科保養地の歴史
蓼科に諏訪市の小学校の分校があるのをご存知ですか?
ビーナスライン沿いの、ホテルハイジの道むかい、小斉の湯の下に、4階建ての建物と、小さな体育館・校庭があります。この施設が諏訪市立蓼科保養学園です。
蓼科保養学園は身体の虚弱な児童の健康増進を図るために、1952年(大正12年)に、小沢侃二により設置され、1948年(昭和23年)に、諏訪市に寄贈、児童福祉施設として入園を希望する小学高5年の児童を広く受け入れるようになった。
年間を4期(1期は3カ月)に分け、男女40名(年間120名)が、親元を離れ、共同生活をしています。
入園児童は、約3カ月の間親元を離れ、マラソン・竹馬・学習・多くの行事を行う中で、助け合い・励ましあいながら共同生活を送ります。
その間、親と会えるのは1回の面会日のみで、それ以外の連絡はすべて手紙で行っています。親も子供も、手紙を書くことでしか、気持ちが通じないもどかしさと淋しさを我慢することは、現代社会では、なかなか体験できないことです。
テレビも決められた時間のみで、もちろんゲームもありません。子供たちは、規則正しい生活とマラソンなどの運動・蓼科のおいしい空気・毎日入る蓼科温泉により、心と体が元気に成長していきます。
このように、大正時代から蓼科は、保養地として最適の場所として見出されていたのです。